客観的に見ると、AIによって仕事を置き換えられるリスクが高いのはプログラマーのはずだ。コーディングはAIが最も得意とする分野の一つで、GitHub CopilotやCursorのようなツールは実際に開発の速度を変えている。自動テスト、ドキュメント生成、バグ検出——以前は人間が時間をかけてやっていた作業が、どんどん自動化されている。
一方で、画像生成AIはまだ目立った粗がある。手の指の描写、細部の整合性、意図した修正の難しさ。パッと見はきれいでも、プロの目には「ここがおかしい」とわかる部分が出てくる。
それなのに、PGはAIを受け入れる人が多く、絵師・イラストレーターは反発が強い。この逆転はなぜ起きているのか。しばらく考えていた。
プログラミングの性質
コードには、正解がある。
プログラミングは、動くか動かないかがある。パフォーマンス、可読性、設計の美しさ——そういうセンスが出る部分はあるが、根本的に「正解かどうか」を確認できる。テストが通るか、処理が意図通りに動くか。コードには判定基準がある。
どんな大規模なシステムにも、こういうコメントが残っていることがある。
#おまじない
#ここは残しておく
someFunction()
誰も触れない謎の数行、消したら何かが壊れる理由が誰もわからないコード。これは別に珍しくない。規模が大きくなるほどそういう部分は増えていく。そしてそれを含めても、コードには「動く・動かない」という明確な軸がある。
AIはその軸に沿って正解を返す。今まで技術者が何時間もかけて探し当てたバグを、個人ブログの備忘録に助けられながら解決していた時間が、日本語で数秒で返ってくるようになった。海外サポートに問い合わせて何日も待って何の有益な情報も返ってこないあの時間、Stack Overflowで同じエラーの投稿を漁って「5年前のAccepted Answerが自分の環境では動かない」と気づくあの徒労感も、大幅に減った。その体験があるから、PGはAIの「すごさ」を肌感覚で知っている。恐怖より先に、強力な道具として機能するものだと体でわかっている。
イラストの性質
絵には、正解がない。
一方で、絵には正解がない。正しいデッサンや技法はあっても、「正解の絵」というものは存在しない。その人個人のスタイル、長年で磨かれた目の肥え方、試行錯誤の中で積み上げた表現——それはAIに学習されても、その人から奪えるものではない。
画像生成AIが「この絵師に似た絵柄」を出力できたとして、企業はそれを公式素材として使いにくい。法的なグレーゾーンの問題もあるが、それ以上に「なぜその作家が好まれるか」の根拠が絵柄だけにあるわけではないからだ。信頼、実績、コミュニティとの関係——絵柄はその入口に過ぎない。
加えて、画像生成AIはまだ「精度の壁」が目立つ。手の指、複雑なポーズ、細かい背景の整合性。プロンプトを工夫すればある程度は改善できるが、微妙なズレを修正していく作業は今のAIには苦手な領域だ。「大まかに正しいものを生成する」ことはできても、「細部を意図通りに直す」ことはまだ人間の方が速い。コーディングのように「動けばいい」とはならず、ビジュアルは「見た人が何を感じるか」が評価軸になる。そこに客観的な正解がないから、AIはまだ代替できていない。
文化と覚悟
「また変わった」に慣れているかどうか。
PGとイラストレーターの反応の差には、コミュニティ文化の違いも関係していると思う。エンジニアはLinuxやGitHubに代表されるオープンソース文化で育っている。「共有して改善する」「バージョンを重ねて育てていく」が当たり前の世界だ。新しいものが出てきたら試してみる、という姿勢がコミュニティ全体に根付いている。
加えて、システム開発という業界は、パラダイムの転換を繰り返してきた歴史がある。クライアントサーバーからWebへ、オンプレミスからクラウドへ、デスクトップからスマートフォンへ。それぞれの転換には数年単位の時間がかかったが、気づいたら業界の主役が入れ替わっていた。長くSEをやっていれば「今の主流がいつまでも続くわけではない」という感覚が体に染み付く。技術そのものが一夜で陳腐化するわけではないが、業界全体の地殻変動は確実に起きるということを、何度か目の当たりにしてきた。だからAIという新しい波が来たとき、「また来たか」と受け止められる下地がある。
一方で、イラストは子供の頃から趣味で始める人が多い。仕事になる前から長い年月をかけて培った技術であることが多く、その技術がそのままアイデンティティとつながっている。AIが生み出す絵柄を目の前に見せつけられて、それが自分の何年もの積み上げを一瞬で上回るさまを突き付けられたら、腹が立つのは当然だ。これは技術の優劣の問題ではなく、アイデンティティへの攻撃に近い。「AIに学習させるための素材を提供した覚えはない」「学習元がなくなったらどうするんだ」という怒りも、根拠がないわけではない。
それでも
できることを、止めることはできない。
怒りはわかる。腹が立つのは理解できる。ただ、人はできるようになったことをやめることができない。写真が登場したとき絵画は死ぬと言われたが、写真を使いこなす側に回った人が生き残り、絵画は写真とは別の方向に進化した。印刷技術が出てきたとき手書きの需要は消えると言われたが、今も手書きの価値は残っている。どの時代も「新しいものが来たら古いものは死ぬ」とはならなかった。変化して、棲み分けて、共存してきた。
だから絵師・イラストレーターへの個人的な考えは「受け入れろ」ではなく、「使いこなす側に回れ」だ。AI生成の画像を見て「ここが粗い、ここが意図とずれている」と判断できる目は、AIには持てない。自分のスタイルをAIに学習させながら制作時間を削り、素人には区別できない微妙なズレを自分の手で修正していく。ラフをAIで大量に出して、そこから選んで仕上げる。そういう使い方に転換した作家はすでにいるし、そちらの方向に早く動いた人ほど選択肢が広い。
PGも同じだ。コードを書く速度ではAIに勝てなくなっていく。でも「何を作るべきか」「どう設計するか」「この要件で本当に動くか」を判断する力は、まだ人間の仕事だ。AIの出力を「これで合っているか」と判断できる技術力があるかどうかが、分水嶺になる。どちらの話も、早めに使い始めて目を肥やしておいた方が選択肢が増えるという結論に行き着く。
まとめると
PGが受け入れ絵師が反発するのは、リスクの大小ではなく「変化への慣れ」と「スキルの性質の違い」から来ている。どちらも同じ問いに向き合っている——自分の代わりに動くものと、どう付き合うか。怒りに時間を使うより、使いこなす練習に時間を使った方が、絶対に得だと思っている。